マルクト広場 ●ブルージュで一番嫌われている国はフランスです。昔フランドル地方を自分の庭だと思っていた時があります。9世紀、カルル3世が没後に帝国は分割されました。フランスはベルギーのフランドル地方を抑えていました。こちらのフラドルの公爵はフランスの家来となっていました。経済的にとってみたらフランスよりお金がありました。独立心は強く抵抗していました。フランスは何回も攻撃したりしましたので、この地方の人はフランスがきらいです。今は観光のためにもフランス語が必要で仕方なく使用しています。 ●ブルージュはオランダ語で「ブルジェ・橋の意味」と発音されていました。バイキングはこの街まで入ってきて、川の橋を作って船着場を作りました。バイキングはこの場所を「ブルージェ・橋のある所」と呼びました。 ●ここは昔大きな街で、商人たちなど60%が外国人でした。ハプスブルグ家の銀行もここにありました。イギリスの商人なども来ましたのでフランドル地方は沢山の外国人がいて栄えていました。いまもここはお金がある地方です。昔ブルージュは北海と大きな川でつながっていました。500年ほど前15世紀ごろ50年間ほどで川が埋まってしまいました。そのため川を使った交易は出来なくなりました。もちろん陸を使用したものは出来たのですが、時間がかかり大きな荷物が沢山運搬できなくなくなりました。外国人の商人はこの地方に残る意味がなくなりました。15世紀の末には、みんなアントワープに移ってしまいました。 ●人口は4万人から1万人に減ってしまいました。立派な外国人の町から幻の街になってしまいました。17世紀にやってきた聖職者は、城壁の中が野生の動物が沢山いる状態になっているのを見て驚きました。街は古くなり建物は崩れ、貧しい人たちの街になってしまいました。19世紀半ば、イギリスの連合軍がここを通ったとき街のすばらしさに気づいて、ここを復興させなければもったいないと思いました。そして復興させました。ガイドブックには中世時代の建物が残る街等と掲載されていますが、少し違うと思います。例えばこのマルクト広場の周りの建物は古く思われますが、中世時代の建物は「鐘楼」だけです。15世期のものです。その他の建物は全て19世紀のものです。正面のゴシック様式の建物は1890年に建てられた羊毛市場です。この建物の前後に運河が流れました。でも運河の管理が大変で埋め立ててしまいました。橋は、中世時代は587ありましたが、今では60くらいしかありません。鐘楼が中途半端な時間になっていますが、時計があわせていませんね。15分に鳴るはずですから、今は22分ですね。ここにもお魚市場でしたが、臭いので移せとなって今はありません。 |